
Fさんは炭鉱で働きはじめて3年が経過しました。生活にも慣れて順調に仕事をしていた時に、やむを得ない喧嘩に巻き込まれて相手に怪我をさせてしまいました。
当時は喧嘩両成敗的な感じが強かったのですが、相手の怪我が酷かったので少年院に入ることになりました。半年ほど少年院で過ごすと、また炭鉱に戻り働きました。
やむを得ない喧嘩だったのを炭鉱の皆も知っていましたので、温かく迎え入れて貰ったそうです。25歳の時に新天地を求めて大阪へ行き、建築関係の仕事をしながら、奥さんも貰いました。
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若い頃、屈強だった男でも年には勝てない
しかし、結婚して子供が生まれると同時に最愛の妻が亡くなってしまいます。残された子供は親せきに引き取られました。残念ながら、それ以来Fさんは子供と会っていません。
Fさんは多くを語る男ではありませんが、奥さんの死がどれほど辛いことだったかを端々に感じさせます。その後、Fさんは会社員を辞めて、亡くなった妻の実家の寺院を手伝い始めます。
奥さんを弔う気持ちが、彼をそうさせたのかも知れません。この自慰で働いたことがきっかけで、彼は台湾に渡ることになりました。台北にある寺で、長らく番兵をしていたそうです。
その後も、台湾と日本を行ききする生活を続けて、還暦を凄るころに日本に腰を落ち着けようと帰国しました。そこで唯一の身内だった姉の死を知ります。
「お土産をプレゼントしようと思って送ったんだけど、全然連絡が無かったんだよ、どうしたんだろうと思い連絡したら、甥っ子がお母さんが亡くなったと教えてくれたんだ」
これで身内がいなくなり、息子とも当然連絡が取れるはずもありません。日本で自分が居る場所は無いと寂しい思いに駆られたのです。
そこでFさんは再び海外で暮らす決意をし、行先をタイにしました。タイではまずバンコクに降り立ち、日本人男性が沢山訪れるタニヤに直行しました。知り合いの紹介でタニヤで用心棒の仕事をしました。
Fさんは小柄で身長が160cmしかありませんが、少年時代から炭鉱で鍛えてだけあって、体は非常に頑丈でした。しかも、山あり谷ありの人生で培われた胆力も伴わせて持っています。
アジアきっての歓楽街ですから、暴力沙汰は日常茶飯事です。そんな場所で用心棒が務まるのも、Fさんならではのことでした。
しかし、5年前にチェンマイへやってきてからは、体の衰えを自覚するようになりました。持病の糖尿病に加え、足腰も弱ってきました。朝食の買い出しを兼ねた散歩もサボりがちです。
アパートの1階にある雑貨屋に行くのさえ面倒になっていました。部屋にウィスキーがあり、友達たちには勧めますが自分では飲みません。健康に気を使っているためだそうです。
続く